2019年3月3日日曜日

11 イーグルムーン

翌日、私はメンバーの一人から特別なプレゼントを受け取った。それは、彼女がカナダ・ブリティッシュコロンビア州の島を訪れた時に買った、その土地の先住民ハイダ族の人が作った木彫りのペンダントだった。 

彼女によると、限られた人しか作ることが許されていない貴重なものだそうだ。それを是非私に持っていて欲しいと言われ、そんな大切なものをいただいて良いのかと私は躊躇したが、彼女の眼差しとその言葉の中に、見過ごすことのできない力を感じ取った。 

以前にも、彼女からそれを感じたことがある。3年前のことだった。私はその時も今回のように北海道へ行きたいという強い衝動があり、そこから導かれるように次々と物事が起き始め、訪れた場所で自分なりの方法で表現する(祈りや儀式をする)という流れになった。 

旅の準備が整い、出発の日空港へ向かう電車の中で、携帯電話にある友人からメールが入った。彼女とは気が合い、昔から助け合ってきた仲だったが、ここ何年かはご無沙汰していた。

久しぶりの彼女からのメールを開けると、「自分は伝統的で厳格な儀式を守ることはとても大切で神聖なことであり、聖地を訪れて勝手に自己流の儀式をするのは守り継いできた人々と土地に対する侮辱であり破壊行為だと思うが、ジュンコさんがそういう類の儀式をしている夢を今朝方見たので、気になってメールした」という内容であった。 

彼女は私の計画のことなど知るよしもない。なのに、よりにもよって出発直前というタイミングに、夢を見たからメールしたとは何ということだ!もしかして、宇宙は私にストップをかけようとしているのか?私はしてはいけないことをしようとしているのか?そうだとしたら、私の直感や突き上げてくるような衝動は何なのか? 

これはかなりのショックだった。今まで自分の直感や衝動に従う時に違和感を感じたことはなく、むしろ心地よさや喜びが広がる感覚があるのに、友人が言っていることを考えると胸がザワザワして苦しくなり、ハートがキュッと硬くなる。しかし、閉じようとするハートの奥から押し広げるように「自分を信じろ」という声も聞こえる。 

北海道に到着し、友人たちと集まった時、その中に今回ペンダントをプレゼントしてくれた彼女もいた。電車の中で彼女が隣に座った時、私は彼女に迷いを打ち明けた。 

すると、それまで穏やかな表情をしていた彼女の表情が一変し、彼女は体ごとこちらに向き直ると、キリッとした真剣な眼差しで私の目をじっと見てこう言った。「伝統とか形式なんて重要じゃない。それよりも大元にある純粋な心が大切。魂は既にわかっている。だから、純粋な心で自分の中から自然に出る感覚こそが本物」だと。 

私は彼女の目の奥に威厳ある長老を見た。その深く強い眼差しに、懐かしささえ感じた。彼女の答えは、私の心の中に響く声と同じだった。

やっぱりそれでいい。自分を信じてよい。 

結局、メールをくれた友人の言葉は私を非難する敵ではなく、私が自分を信じるという選択をしてきちんと答えにたどり着くことで、さらに自分を信じられることを手助けしてくれた盟友だったと、のちに気づくに至った。 

今、私の確信は、自分の体験を通じてよりしっかりとしたものになっている。連綿と受け継がれてきた伝統の方法で厳粛に執りおこなうことはひとつの表現であり、伝統とそれを重んじる心に対して敬意を払うが、私にとっては、感じるままに独自のスタイルで動くことの方が、自分という存在と大いなる自然がよりダイレクトに繋がる感覚がある。

それは自発的で純粋な行為であり、自分の足で立って積極的な創造者として生きる姿勢の実践になると私は思う。 

有り難くいただいたそのペンダントを見ていたら、頭に浮かんだ映像があった。それは、私がまだシアトルに住んでいた頃に描いた絵だった。 

その絵は、ある夜見た夢に基づく感覚を表現したものだった。夢の中で、私は宇宙空間でクルンクルンと回転していた。それがとても心地よく、胎児が羊水の中で回転するとき、こんな感じなのかな?と思った。その時の感覚を思い出しながらペンを取ると、小鳥のような胎児のような形が描かれた。ああ、私は宇宙母の胎内でこうしてクルンクルンしている胎児だ、と思ったのだった。 

ペンダントには、「イーグルムーン」という名前が付いている。ペンダントと描いた絵を並べてみると、それぞれの道を歩いてきた2つが時を経て出会い、喜び合って一緒にクルンクルンしているように見える。

その動きの中から言葉が流れ出てきた。
「共にあること、愛おしさ、温かさ、愛。この宇宙で、私たち一人一人はかけがえのない存在」。