2019年3月3日日曜日

7 見せてもらえる

物理的には視力が極端に低下しているにも関わらず、インパクトを持って目に入ってくるものがある。  

夢の中で弱視という言葉を突きつけられ、実際に視力が悪化していく中、ある日、私は散策しようと遊歩道に入った。全体がぼんやりとしている風景の中で、私は、自然の美しさや緻密なデザインをこの目ではっきり見ることができなくなるのはとても残念で悲しい、おそらくそれは私にとって最も悲しいことかもしれない、と思った。 

花びらの詳細を、葉の葉脈を、完璧で美しい自然のデザインを、再びこの目で見ることができるようになりたいと強く思った。すると、突然目の前に信じられないほど美しい色の昆虫が現れた。まるで、悲しむ必要なんてないぞと言って、大いなる自然が私に見せてくれているかのようなタイミングだった。 

私は柵の杭の前に立っていたが、そこに鮮やかな緑色の虫がいた。私は夢中で何枚もの写真に収めた。撮っている時はよく見えないので、家に帰ってパソコンにダウンロードして拡大してみると、本当になんと美しいのだろう。しかもその虫は、しばらくじっとしていたので、私は余裕を持ってカメラに収めることができた。 

写真は、思いのほかうまく撮れていた。それを眺めていると、驚嘆と喜びが湧き上がる。そしてなぜか、全ては完璧で問題などない、私は大丈夫なのだ、と思った。

 






また、あるビルの書店のセクションを通り抜けようと歩いている時、ふと首を右に向けると、そこに置いてある小さな本が濃く光って目に飛び込んできた。それは目に関する健康本で、本が「読んでみて」と訴えかけているように見えたので買った。 

内容は、目だけでなく体全体に役立つものであった。他の本は白っぽくぼやけているのに、必要なものは見える、いや見せてもらっているのだと思わずにはいられないほど、その本は際立っていたのだった。 

こんなこともあった。ある日、お気に入りの大木に会いに行き、その存在と叡智を讃え、感謝の祈りと歌を捧げて小さな儀式をした。私の中で、ひとつ何かが整理されようとしており、何かが終わり、何かが始まる気配がしている時だった。 

ふと土の上に手を置きたくなり、しゃがんで視線を落としたら、落としたまさにその一点に2〜3ミリの種があり、それは根を張って発芽していた。こんな小さなものは、色々なものが混ざり合っているこの土の上で、探そうとしても探せない。しかも、極端に視力が落ちている今の私の目には、ほぼ不可能に思われる。 

これはもう驚異としか言えない。 

私は大木を見上げた。その瞬間、大木が目の前に迫り、その存在が一段と大きくなった。発芽した小さな種を発見した私の心の動きや思考は、大木を前に全てガラス張りとなっているように感じられ、少し気恥ずかしかった。大木は、私にこう言っているように思えた。 

「答えはあるじゃないか。既に与えられているのだ。探さなくても意思表示をすれば、向こうから近づいてきてくれる、そういうものだ。新しい意識が、この種のように根付いて発芽する」と。