2019年3月3日日曜日

5 ゼロになっていく

スローダウンすると心に余裕ができるため、さらに不要なものが見えてくる。もっとシンプルにしたいという気持ちが高まり、少しずつ家の中の不要なものを捨てていった。捨てると爽快になるため、さらに捨てたくなる。私の人生は、捨てて終わりにすることだったのかと思うほどである(笑)。 

究極は、私が長年大切に持ち続けてきたノートだった。片付けも、いよいよ最終段階に差しかかったというわけだ。 

私は20年ほど過ごしたシアトル時代に、夢の中でたくさんのメッセージを受け取り、日常での気づきなどと一緒にノートにしたためていた。それをいつかきちんとした形にしたいとずっと思いながらも、実行しないままであった。 

これまで何度か読み返し、10冊ほどあったノートの中から、もう重要ではないと思ったページは破り取って捨ててきたので、残ったものは自分にとって本当に大切だと思ったメッセージや気づきであった。 

しかし、今となっては白内障が進行しているのでノートの字がかなり霞んでしまい、その残った部分に何が書かれているか、読もうという気にもならない。眼鏡をかけてじっくり内容を再吟味することもできるが、直感は「読まなくてよい」だった。 

字が書いてあるページをぼんやりと眺め、1枚ずつビリビリと破っていくのは、長年大切に持ち続けてきたものを手放す自分への反逆的行為のように思われたが、実は爽快だった。 

私は執着なく「壊すこと」を楽しんでいた。壊したのは、もう必要でない「考え」であった。片付けは、持ち続けてきたその考えに「片を付ける」ことであった。 

破った後、最後のノートには何も書いてないページが残った。そのノートを閉じてから、パッと開けてみる。すると、真っ白のページが目に飛び込んでくる。ページに何も書かれていないということの新鮮さ。 

私の中から歓喜が沸き起こった。
何もない。なんと気持ちの良いことだろう!その軽さのなんと爽快なことだろう! 

それで思い出したことがある。昔アメリカに住んでいた時、ある日交差点で信号待ちをしていると、背後から「すみません、北の方向へ行きたいのですが」と声をかけられた。 

振り向くと、そこにすらりと背が高く長髪で30代くらいの男性が立っていた。見ると、その人は盲目のようだった。「ああ、北はこちらの方向ですよ」と言って、私は体をそちらの方角へ向かせるために、両手でその人の肩に触れた。 

その瞬間の感覚を、私は今でもはっきりと覚えている。
 
触れた瞬間、その男性の体の中へ意識が引き込まれた感覚があり、彼の体の中に、透明な青空の下、平原に清々しい風が吹き渡っているような風景が私の手を通して感じられた。私は、その清涼で透き通ったエネルギーに驚愕したのを覚えている。人に触れてそのような感覚を味わったのは、後にも先にもその時だけである。 

その人は両目を閉じたままだったので全盲だと思われるが、杖さえ持っていなかった。あれは何だったのだろう?本当に人だったのだろうか?と思わずにはいられない。