2019年3月3日日曜日

4 一旦降りる

見えづらくなっていくという物理的な制限は、振り返ってみると与えられたチャンスだった。  

物理的に負担になることをやらなくなると、意識は自然に身の回りにフォーカスされるようになる。 

様々な場所に出かけて行うタッチドローイングや塗り絵のワークショップ、その他創作活動を休止し、目が疲れるため、パソコンやスマホ、テレビを見ることや、文字を読むことを控えるようになった。 

日常の生活に、それほど不自由は感じない。刺激的で大小様々な色や文字が溢れ、雑多でごちゃごちゃしているアーケードの中を歩いていても、細かいものはぼやけていて大きいものしか見えないので、目がかえって楽である。見る必要のあるものはそんなにないのかも、と思ったりもする。

視覚的ノイズが減ると、意識が内側へと入りやすくなる。頭の中が次第にしぃんとしていき、歩調さえもゆっくりになり、自分の軸がよりはっきりと感じられる。 

静寂と平安が常に中心にあり、見えないことで、意識が中心にとどまりやすくなる。心地よいゆったりとしたペースの空間が私の中から現れ、私を包む。その心地よさの中にいると、何かを探したり、追い求めたりしようとする気持ちがなくなっていくのである。 

そうすると、執着がなくなっていく。どうでも良いという気持ちにさえなり、これまで力を入れてきたことからも手を引き、一旦降りてみる。すると、逆に何も失っていないことに気づく。 

次には、SNS からも一旦離れることになった。年末に泊まったホテルでたまたまテレビをつけると、インスタ映えを狙った行動や友達のレンタルの現状を伝える番組をやっていた。私はこの表面的で不自然な行動に強い違和感を感じた。以前から、フェイスブックから絶え間なく流れてくる膨大な情報量にもストレスを感じていたので、この番組は、私にとってある意味シグナルのようなものだった。 

私の内なるドラムのリズムは、明らかに変わった。目の不調は、自分の活動にしてもフェイスブックにしても、自分がこれまで続けてきたパターンから一旦離れる機会を与えてくれていたのだと思う。 

離れると、逆に大切なことに光が当たる。会うべき人は、絶妙なタイミングで連絡してきてくれる。必要な場所へは、内側の衝動があって出かけたくなり、距離に関係なく、また苦労することなく、行くことができる。

そうすると、必要なことは完璧なタイミングで起こっており、必要なことは与えられるということを再確認でき、宇宙を、自分を、人を、信頼する力が強まる。