2019年3月3日日曜日

16 歌を届ける

翌朝は快晴だった。この日は、湖の反対側を通って、支笏湖へと向かうことになっていた。

小道を走っていると、突然右側に細い脇道が現れた。私の視界は白っぽくぼやけているので、近くにならないとわからないというのがくせ者だ。道の奥から「こっちだよ」と引っ張られた感覚があり、「あっ、ここ曲がってみたい」と叫んだ時は、既に通り越していた。慌ててブレーキを踏んでバックする友人に申し訳ないが、どうも彼女もその道に何かを感じたらしい。 

整備されていない土の道に入り、私道なのだろうか、入ってもいいのだろうかと思いながらゆっくり傾斜を上がっていくと、平坦な丘の上に出た。車から降りると、そこは広い場所で洞爺湖が一望できるが、ただの空き地のようになっている。誰もいないその場所は私有地で立入禁止なのかもしれないと思ったが、そこで誰かがキャンプでもしたのか、畳が何枚か放置されていた。 

その時、少し離れた木立の中で「お〜い、そこ入っちゃダメ〜!」というような中年男性の声がした。見張りの人に見つかってしまったと思い、私は戸惑って立ち止まったら、友人も何か考えているような顔をしていた。彼女もおじさんに注意されたと思ったそうで、二人とも同じような反応をしていることに内心クスッと笑った。 

すると、また声が聞こえてきた。今度は、それは人間ではなく、むにゃむにゃと何かを話しているような声のカラスだとわかった。変な声を出して、私たちに自分の存在をアピールしているかのようだった。 

おじさんではないとわかると安心し、私たちは丘のヘリの方へ歩いて行った。真っ青な空の下に洞爺湖が広がっている。足元には白い野草の花が咲き乱れ、心地よい場所だった。 

私は、その広場は私たちのために用意されていて、何かをするためにここに来たのだと強く感じていた。ヘリに立って、私はそこからしばらく洞爺湖を眺めていた。友人は私のスペースとタイミングを尊重してくれており、距離を置いて静かに私の後方で見守っていてくれた。 

いつの間にか、さっきのカラスが私の左横の木の上にいて、「カァーカァー」と鳴き始めた。今度は普通の鳴き方だった。

しばらくすると、反対側の遠く離れた所から「ホホッ、ホホッ」という低い鳥の声が聞こえてきた。ツツドリがリズミカルに鳴き始めたのだった。 

するとまるで二羽の鳥が掛け合いをしているかのように、「カァーカァー」、「ホホッホホッ」、「カァーカァーカァーカァー」、「ホホッホホッホホッ」っといった具合に、こちらと向こうでしばらくの間鳴き合い、やがて沈黙すると、再び掛け合いを始めた。

湖の上を往復する二羽の鳥の声とリズムの間に挟まれて、私は不思議な感覚の中へと滑り込んで行った。 

この二羽の鳥が、場を整えてくれているような気がした。私が耳をそばだてると、あたり一帯も耳をそばだてて何かを待っているように感じられた。私はここで何をしたいのか・・・。 

このまま何もしないでここを去ったら絶対に後悔するほど、強いものが私の内側から込み上げてきていた。私は丘の上から中島を見つめていた。昨日見た木の顔が思い出され、ピラミッドのような形をした中島にいる魂たちと繋がりたいと思った。 

今回はドラムを持って来ておらず、ドラムを叩きながら歌うことはできないが、やはり歌を届けたいと思った。自分が作ったメロディーがいくつか頭をかすめる。だが、どれも違うような気がする。 

思考を止め、ハートにフォーカスした。すると「中島の魂たちにアメリカの大地のエネルギーを届ける」と内側から声が聞こえてきた。すぐに、頭の中にこの状況にピッタリのある歌が浮かんだ。 

広場はしぃんとしており、友人の他は誰もいないが、自意識が働くと緊張してしまう。そこで声を出すことが恥ずかしく、私は躊躇した。もじもじしていると、静かだったカラスがまた鳴き始め、次第に声が大きくなり、鳴き方が激しくなってきた。 

カラスは狂ったように鳴き続け、声の激しさがエスカレートしていった。
「早くやらんカァァァァー!!!」 

私は、ジョアン・シェナンドーの “Dance of the North” を恐る恐る歌い始めた。誰もいないが、森が、そして目に見えない存在たちが聞いていて、私はいい加減なことをしてはいけないように感じられ、緊張してなかなか自分の声が出ない。 

しかし、メロディーを何度か繰り返しているうちに、緊張が解けてハートが開き始めると、いつもの自分のアイデンティティが消えていった。

私は胸にハイダのペンダントをつけ、目に見えないショールをまとい、両手を広げて北にいる先祖の魂たちと共に、中島にいる同胞へ愛を込めて呼びかけている一人の女性になっていた。今は海を隔てていても、元々私たちはきょうだいであり、ひとつなのだと。

私はハートであり、ハートは声であり、声はかすかな風に乗って眼下の湖へと広がり、その波動は空へと昇っていった。 

既に知っている感覚、懐かしい感情が込み上げる。「今」という瞬間に、あらゆるものが存在する。ここ、そこ、あちら、あの時、これから・・・。

中島に手を差し伸べ、私は歌に乗せた想いを送っていた。やがて、心の家へ迎え入れるかのように湖に向かって広げた両手は、大空へと伸びていた。

自分が何をしているのか?そんなことはどうでもよく、私はただ、今という瞬間に自分のハートが感じる感覚に任せていた。 

動きが止まり終ろうとした時、後ろから、バンバンバンという音が聞こえてきた。振り向くと、友人が自作の弦楽器のメタル盤の部分を手で打ち鳴らしながら、こちらに向かって歩いてきていた。

それはネイティブアメリカンドラムを叩いているような音で、チューニングされていない弦の音は、バランバランと原始的な音を立てていた。音の入るタイミング、音の質、そして彼女の女性の手による男性的で力強い弾き方は、野性的で原始的でもあり、歌の締めとしてぴったりだった。 

私はその時、他に誰もいないはずの広場に、かすかな音と大勢の人の気配を感じた。演奏している友人の背後、広場の中央あたりでドラムを叩く人、それに合わせて輪になって踊っている人たち、周りに座って見ている人たちの姿が、一瞬の間だったが見えた。それは、私たち二人と並行して別次元で行われている祝祭の集いのようであった。 

広場に到着した時は空に雲ひとつなかったが、歌を歌っている間に、太陽の周りに薄い雲が集まり出した。歌い終わり、演奏が終わった時、空を見上げると、頭上にある太陽の周りに日輪ができており、そこから中島までを繋ぐかのように、島の上あたりまで雲の線がうっすらと棚引いていた。 

それを見た時、私は、何か大きな仕事をひとつ終えたような脱力感と安堵に包まれた。何がどうとは説明できない。ただ、私はハートの感覚を信じて、そこから感じるままに表現できてよかったと思った。

友人も、楽器は2種類持っていたが、やっぱりここでは直感で選んだこの楽器で正解だった、と話してくれた。歌と演奏という形で、こうして二人で表現できたことに、私は満足だった。 

私たちが帰ろうと停めてある車の方へ歩いていると、カラスがこちらに向かって飛んできて、一旦車の近くの木立の中でバタバタしてから、広場から去っていった。私が歌い始めてから周りはずっと静かだったのでカラスのことは忘れていたが、私たちが終わるまで、一声も鳴かずにそばの木の上にとどまっていたようだった。

カラスはそこから私たちを見守っていたのか?そして、私たちが終わったら、カラスも用を終えて帰るというのか?

私はぞくっとした。