かなりのインパクトのある一瞬だった。目は独立したそれ自体の意志と知性を持っていて、持ち主である私に協力するように声をかけてきたように感じられた。
もちろん私は医師の指示通り目薬をつけ、目をいたわっていた。それも大事なことだが、目はもっと大切なことを私に気付かせたかったようだ。
目からの直接の声を聴くことで、私はそれが持つ意志と知性を認識した。すると認識した瞬間に、回復することに対する意識が自動的にグンと引き上げられ、今までとは違った質のものになっていた。内側で何かが合致したような感覚を伴い、全体的とでもいうか、生命エネルギーがよりリアルでイキイキと輝きを増したように感じられた。
さらに、それ自体の知性と意志を持った臓器への愛おしさと、敬意にも似た感覚が訪れた。目は、私が頭で考えるよりもはるかに多くのことを知っているのではないか?そう思うと、自ずと謙虚な気持ちにもなるのである。
家の周りを歩いていても、少し離れた所で輝きを放って揺れている木々の葉がはっきりと見えることに、心踊る。視界が霞んでどうやっても視力が改善されなくなった時、自然の美しさや緻密なデザインをこの目ではっきり見ることができなくなるのは、私にとって最も悲しいことかもしれないと思ったことがあった。
それを思い出すと、今、目に対して愛おしさと感謝の気持ちがこみ上げる。見えてしまうとそれは当たり前になるが、当たり前でないことを通った後だからこそ、わかることがある。英語で「わかる」は “I see” というが、see = 見える、まさにその通り。