2019年3月3日日曜日

21 即興演奏

北海道で友人が奏でた自作の楽器も、小野さんに聞かせてもらったフルートも、チューニングされていないシンプルで原始的なものであったが、それらとの出会いはそこで終わったのではなく、次なる段階へと展開していった。 

北海道から戻った翌月、岩手の友人から久しぶりに連絡があり、彼女のお宅にお邪魔した。そこで出会ったのは、古いピアノだった。彼女はここ何年か、インスピレーションに任せてピアノを弾く想いを温めており、それを語る彼女のイキイキとした瞳から、彼女にとって、そのことがいかに大切であるかが伝わってきた。 

翌朝目が覚めると、下の階からピアノの音が聞こえてきた。友人が弾いている音色とメロディーが、私の起きがけのまっさらな心と体に触れた。私は廊下の突き当たりまで行って、階段の上でじっと聴いていた。 

差してくる柔らかな朝の光、木の周りを飛び回ってさえずる小鳥たち、少し水色っぽい穏やかな風、朝露に濡れた黄色い花びら、野草の絨毯、どこからともなく漂ってくる甘い香り、虫たちの羽音・・・。 

流れるメロディーと共にそのような情景、色や香りが次々と浮かんでは過ぎていき、それと同時にふっと襲う切なさや小さな喜び、愛おしさ、安堵感など、様々な感情が小さなつむじ風のように次々とやってきては、消えていく。

私のハートはドキドキした。なんと豊かな流れなのだろう。 

曲が終わる頃には、私のハートは膨れ上がってエネルギーに満ちていた。こんな豊かな心の状態の朝があるなんて!

それは、録音された音楽をかけるのとは全く質の異なるもので、誰かが作った曲を正しく弾いているのを聴いているのとも違う。強烈に有機的という言葉がしっくりくるだろうか。今まで体験したことのない豊かな感覚に包まれた朝だった。

下の階に降りて行くと、友人は、その朝の気分を音にしてみたと言った。ピアノの横の開け放たれた戸の向こうには、木々や野草が生い茂る広い庭が見える。彼女はそれらとハートでコミュニケーションを交わしていたのだろうか。それは彼女の指をつたって、私のハートにも確実に届いていた。 

午後に、彼女は再び演奏を聴かせてくれた。私はピアノのすぐそばの床の上に座って、彼女が感じるままに弾く音を全身で聴いていると、私が知っていると思っていた彼女は、ほんの表面だけの部分で、しかもそれは間違った理解であったことを知った。 

彼女が表現する音色やメロディーに、風が吹きすさぶ荒野で髪と服をはためかせ、力強く立ってまっすぐ遠くを見つめている一人のパワフルな女性の映像が浮かんだ。そこから彼女の持つ強い情動や、生きることに対する燃えるような情熱が伝わってくる。 

それは、私が彼女に対して持っている印象とは、正反対のものであった。さらに、音の深みの中に、これまで長い長い道のりを歩き、あらゆるものを目の当たりにし体験してきた魂としての彼女の存在が感じ取られた。 

胸が熱くなり、自然に涙がこみ上げる。私は今、何かとてつもなく大切なものに触れさせてもらっている、と感じた。私の中の深い部分が共振し、開いて上昇していく感覚がある。

これはただの演奏ではない。魂のこえだ。 

私は強く感動したことを彼女に伝えると、今度は私もやってみないか?と誘われた。 

「えっ?とんでもない!私はピアノは弾けないよ〜」 

私は子供の頃にエレクトーンを習っただけで、ピアノは習ったことがなく、鍵盤にはもう20年以上触れてもいなかった。楽譜も読めなくなっているし、エレクトーンとピアノは指の動きが違うので、本当にとんでもないことだった。 

「でもタッチドローイングできるでしょう?そう、あれと同じこと。指が知ってるよ。私がバックでサポートするから」と彼女に言われると、「指が知っている」という言葉が直球でハートに届き、ではやってみようかという気持ちになった。
 
どんな音が出るかわからない。鍵盤の上に恐る恐る戸惑いながら指を置いていく私に、彼女が絶妙なタイミングで音を重ねてくれると、紡がれた音色が心地よく響いた。慣れてくるに従って緊張が緩むと、内なる衝動や感覚が湧き起こり、私は、次第に深い喜びと楽しさに心が満たされていった。

ピアノはたまたま2台あり、1台は微妙な調律がなされており、もう1台は調律されていないとのことだった。どちらも古いピアノで独特な響きと味があり、2台から紡がれる音色は心地よかった。

これまでピアノに対してどこか硬くて難しいものというイメージがあったが、感じるままに弾いてみるというアプローチが違うと、これほどまで感覚が変わるのかと思うほど、柔らかく楽しいものとなった。

この体験が、手術後の夢を通してさらなる新しい体験へと発展することになるとは、この時は夢(!)にも思わなかった。