2019年3月3日日曜日

53 どちらが正しい?

退院して帰宅し、眼帯を外して見え具合を確かめてみると、左目と右目の見え方が違うことがわかった。右目は網膜剥離の影響があるため少しくっついて狭くなって見えているが、左目はやや幅広で太めに見える。文字に例えると、右が明朝体で左がゴシック体のフォントを見ているようなものである。

テーブルを挟んで座っている夫の顔も、片目ずつで見ると痩せ顔バージョンと太顔バージョンの2通りになるし、鏡に映った自分の顔もそうである。これは意外な結果だったので、私はショックで頭の中が大慌てになった。「えっ?どっちが正しいの?!本当はどっち?ひょっとしたら、どちらも正しくないかもしれない・・・!」

見えているものが本当にその通りであるかなんて、今まで考えたこともなかったので、これはまさに青天の霹靂(へきれき)だった。その上、両目の眼内レンズは単焦点コンタクトレンズが永久的に入っているようなもので、もはや自然な状態ではないことも手伝って、目に対する考え方に変化が起きざるを得なかった。

それぞれに差があるため、両目で見ると最初は少し見え方に違和感があったものの、脳が調節してくれるおかげでなんとなくひとつに落ち着いてきたが、片目ずつで見ると違って見えることに変わりはなかった。

自分の顔は、正確に言えば3通りに見えるのである。私は鏡の前に立つたびに、今見ているこの顔は本当の自分の顔なのだろうか?という、アイデンティティの危機にも似たような、これまで直面したことのない種類の心理状態に陥った。

しかし、そのような気持ちだったのも数日の間だけだった。どれが正しい?どれが本当?と考えると苦しくなるが、私は正確であることにこだわる傾向があるんだなあと気づくと少し楽になる。そして、正確なんてことはあり得るのだろうか?と考え始める。

そもそも自分の顔や姿は、何かを介さずして見ることはできない。それが100%正確だと言えるのか?それに、機械で作ったように、全員の目が同じ状態で生まれてくるなんてことはあり得るのか?もしかしたら、自分と全く同じ見え方をしている人など、最初から一人もいないかもしれない。

すると、全員が全く同じように見えるというのは不可能な方が自然に思えてきた。生まれ持った物理的な状態、色弱や視力、矯正の状態、その他様々な目の状態、さらには感情や観念、思い込みなど主観的な要素、意識の違いによっても見え方は違ってくる。

完全に同じというのは有り得ず、私たちはある一定の共通認識の下に物を見ていると考えるとどうだろう?

これまでそんなことは考えたこともなかったが、この「一定の共通認識の下に物を見ている」という考えが浮かんだ瞬間、頭の中に、人種のるつぼと言われるアメリカのニューヨークの街角で道路標識を見ている人々の姿が映し出され、私の中でピンと何かが弾けると、それが広がっていった感覚があった。

私は思った。両目はもはや元の状態でないことは確かであるが、私には選択肢がある、と。足りないものを取り戻そうと躍起になる、失ったものを嘆く、今十分にあると満足する。そのうちのどれを選ぶかで、私の心の状態は大きく変わる。

悩んだり苦しくなったりすると、決まってハートから返ってくる言葉があるが、それは「問題視しない」と「(その考えには)広がりがあるか?」である。苦しく感じる時は大抵考えに広がりがない。

私にとって「今十分にあると満足する」の選択肢が最も広がりがあるので、その広がりを感じていると、何がどうであろうと自分は今がベストな立ち位置にいるというところに行き着く。今がベストであると意識すると、たとえ気持ちがざわざわしたり、落ち込んだり、ネガティブな感情が上がってきても、それらは長続きしない。

さらに、苦しい考えは必要のない古いものなので、自分はこの先同じことを続けるか続けないか、というところにも行き着く。そんな時、自分には選択する力があると私は思うようにしている。するとハートは、「続けない」という明確な答えを返してくる。

両目で見える範囲のものは見えているので問題はない。正しいというのはないし、私の見え方がもう昔の状態とは違ってしまっても、視界はクリアーなのだから問題はない。見えていれば良しとしよう。

この「見えていれば良い」というのはかなりゆるく大雑把な姿勢だが、そう考えることでありのままを受け入れられる。すると自分に対して優しくなれるし、何よりもその方が無理がないので心地よい。

心地よいのが一番だ。そのような心の状態でいる時、世界も人々も優しく目に映る。

それは、「見える」ということに対して、これまで私の中にあった古いものが終わりを告げるほど、大きく意識を変化させるものであった。手術をして左右の見え方が違う結果にならなかったら、考えもしないことだった。このことは、文字通り eye-opener (真実に目覚めさせるような出来事) であった。