2019年3月3日日曜日

55 クリスタルが割れた

退院して数日後、不注意で机を揺らしてしまい、そこに置いてあったクリスタルのブレスレットが落ちて、クラック水晶のひとつが真ん中から割れて半月状態になってしまった。今まで何度も落としたことがあるが、このタイミングで割れるとは。

ブレスレットの石が割れるのは不吉だとか、何かの身代わりになっただとか言う人もいる。私としては何らかの浄化だと思っていたが、そのブレスレットを手に取ってみてもそんな感じはしない。

それよりも、「タネが割れた」という言葉が浮かんだ。そう、クリスタルのタネが割れて発芽する、という方が感覚的にしっくり来た。クリスタルのタネが割れる、発芽するなんてヘンテコな表現だが、それは象徴であると感じた。

網膜剥離から約2年の期間は、のちに振り返って、私にとって大きな節目だったと言える時なのだろう。その間に起こった出来事は様々な側面を持つが、体験は時間と共に私の中で徐々に結晶化されていき、私はそれを書き綴ることになった。その結晶化された(クリスタル状になった)タネから発芽した芽は、成長という大きなエネルギーの流れの中で、既に伸び始めている気配がある。

割れたクリスタルから芽が出るというのは奇妙な想像で、さらに言葉遊びまでするつもりはないが、私は「芽」の「め」は「目」でもあり、ローマ字で「me」と表記すると英語の「自分」と言う意味にもなると気づいた。

すると、私の中からさらに言葉が流れ出た。「目に映った瞬間の物事はそれ自体ニュートラルであり、それは透明なガラスのようなクリアーな意識の扉を物事がそのまま通過していくだけのこと。そのような目に映ったものを「me」(自分)がどのように捉える(意味づける)か。そこが積極的な創造の始まりである」と。

「同じことをしていても仕方ない」という言葉が繰り返し頭の中に浮かんでくる。水晶体を取り替えて新しい目になった私は、新しい意識をベースに新しい創造をしていくというのが、割れたクリスタルからのメッセージなのだろう。

今月中旬に、私は左目の手術の直前に知ることになった瞳のような形をした湧水を、それを教えてくれた親友と一緒に訪れることになっている。手術の最中に、私は自分が湧水として生きている水になった感覚があったが、その生命エネルギーである水に会いにいく。そこで私は何を観て何を感じるのだろう?

地上の瞳であるかのようなその湧水を心に浮かべると、その水の上に重なるように、空の瞳であるかのような「スターガーデン」の絵が映る。そして、8月8日に夢の中で見た、空に向かって昇っていく列車と共に、この歌が聞こえてくるのである。


さあ行くんだ
その顔を上げて
新しい風に
心を洗おう

古い夢は
置いてゆくがいい
再び始まる
ドラマのために 

<ゴダイゴ 「銀河鉄道999」より>




私を様々な形でサポートしてくださっている全ての方々に感謝します。そして約束の下、私を導いてくれているたくさんのスピリットたちに感謝します。




 

54 こんまりさんがやって来た

複数のことが並行して起こっているため、時間的には少し前に戻るが、退院してすぐのある日、夫が興奮したように言った。

「俺のネットフリックス・アカウントに、こんまりのショーが入って来てびっくりした」

「???」

アメリカに住んでいた頃から、夫はネットフリックス動画配信サービスを利用しているが、アクセスすると、近藤麻理恵さんのアメリカでの片付けリアリティショーが、リクエストもしていないのに勝手に入っていたとのことだった。

私はニヤリとした。というのも、退院して帰宅した時から片付けをしたくてうずうずし始めたからだった。

「そうそう、断捨離のタイミング!」

私たちは2012年の秋までアメリカにいたので、近藤麻理恵さんのことも断捨離ブームのことも間接的に聞いたことがあるだけだった。その後、アメリカの友人がこんまりメソッドの話をしてくれて、具体的に知ることになる。

今年の元旦からアメリカで始まったショーが、片付けたいと思っていた私の気持ちにシンクロするように、夫を通してやって来た。

私たちは早速8つのエピソードをひとつずつ見始め、それと並行して私も片付けを始めた。以前やった片付けとは違い、こんまりメソッドを使ってみると、片付けを通じて自分と物との関係性、その背後にある想いなどが見えてくる。

持っている衣類を全て一箇所に出してみると、普段着、外出着の扱い方、種類、着る頻度やパターンが良くも悪くもいかに母親の影響を受けているかがわかった。

大胆な色や柄も好きなのに、目立ち過ぎることを極力抑えて来た。色々持っているにも関わらず、こなせていない。色々なものを試してみたいという、好奇心旺盛な自分がいるし、選んだ服から、フェミニンから男前まで様々な側面が顔を覗かせる。片付けながら、ふふ〜んフムフムと頷き、そんな色々な自分を抑えずに、もっと発揮させてあげようと思った。

捨てることに対する罪悪感は、とどのつまり「地球を汚したくない、これ以上負荷をかけたくない」という考えだった。その罪悪感を持ちながら、捨てられないものにスペースを取られてイライラしながら生活する方がよほど不健康で、そんな自分が地球と良好な共同創造ができる訳がない。

捨てるとほとんど100%の場合、スッキリしてエネルギーチャージされ、スペースができた分だけ新しいものを迎えるワクワク感となっていく。

それにしても、このタイミングで夫のネットフリックスに入ってきたなんて、またしてもおもしろ過ぎる!



53 どちらが正しい?

退院して帰宅し、眼帯を外して見え具合を確かめてみると、左目と右目の見え方が違うことがわかった。右目は網膜剥離の影響があるため少しくっついて狭くなって見えているが、左目はやや幅広で太めに見える。文字に例えると、右が明朝体で左がゴシック体のフォントを見ているようなものである。

テーブルを挟んで座っている夫の顔も、片目ずつで見ると痩せ顔バージョンと太顔バージョンの2通りになるし、鏡に映った自分の顔もそうである。これは意外な結果だったので、私はショックで頭の中が大慌てになった。「えっ?どっちが正しいの?!本当はどっち?ひょっとしたら、どちらも正しくないかもしれない・・・!」

見えているものが本当にその通りであるかなんて、今まで考えたこともなかったので、これはまさに青天の霹靂(へきれき)だった。その上、両目の眼内レンズは単焦点コンタクトレンズが永久的に入っているようなもので、もはや自然な状態ではないことも手伝って、目に対する考え方に変化が起きざるを得なかった。

それぞれに差があるため、両目で見ると最初は少し見え方に違和感があったものの、脳が調節してくれるおかげでなんとなくひとつに落ち着いてきたが、片目ずつで見ると違って見えることに変わりはなかった。

自分の顔は、正確に言えば3通りに見えるのである。私は鏡の前に立つたびに、今見ているこの顔は本当の自分の顔なのだろうか?という、アイデンティティの危機にも似たような、これまで直面したことのない種類の心理状態に陥った。

しかし、そのような気持ちだったのも数日の間だけだった。どれが正しい?どれが本当?と考えると苦しくなるが、私は正確であることにこだわる傾向があるんだなあと気づくと少し楽になる。そして、正確なんてことはあり得るのだろうか?と考え始める。

そもそも自分の顔や姿は、何かを介さずして見ることはできない。それが100%正確だと言えるのか?それに、機械で作ったように、全員の目が同じ状態で生まれてくるなんてことはあり得るのか?もしかしたら、自分と全く同じ見え方をしている人など、最初から一人もいないかもしれない。

すると、全員が全く同じように見えるというのは不可能な方が自然に思えてきた。生まれ持った物理的な状態、色弱や視力、矯正の状態、その他様々な目の状態、さらには感情や観念、思い込みなど主観的な要素、意識の違いによっても見え方は違ってくる。

完全に同じというのは有り得ず、私たちはある一定の共通認識の下に物を見ていると考えるとどうだろう?

これまでそんなことは考えたこともなかったが、この「一定の共通認識の下に物を見ている」という考えが浮かんだ瞬間、頭の中に、人種のるつぼと言われるアメリカのニューヨークの街角で道路標識を見ている人々の姿が映し出され、私の中でピンと何かが弾けると、それが広がっていった感覚があった。

私は思った。両目はもはや元の状態でないことは確かであるが、私には選択肢がある、と。足りないものを取り戻そうと躍起になる、失ったものを嘆く、今十分にあると満足する。そのうちのどれを選ぶかで、私の心の状態は大きく変わる。

悩んだり苦しくなったりすると、決まってハートから返ってくる言葉があるが、それは「問題視しない」と「(その考えには)広がりがあるか?」である。苦しく感じる時は大抵考えに広がりがない。

私にとって「今十分にあると満足する」の選択肢が最も広がりがあるので、その広がりを感じていると、何がどうであろうと自分は今がベストな立ち位置にいるというところに行き着く。今がベストであると意識すると、たとえ気持ちがざわざわしたり、落ち込んだり、ネガティブな感情が上がってきても、それらは長続きしない。

さらに、苦しい考えは必要のない古いものなので、自分はこの先同じことを続けるか続けないか、というところにも行き着く。そんな時、自分には選択する力があると私は思うようにしている。するとハートは、「続けない」という明確な答えを返してくる。

両目で見える範囲のものは見えているので問題はない。正しいというのはないし、私の見え方がもう昔の状態とは違ってしまっても、視界はクリアーなのだから問題はない。見えていれば良しとしよう。

この「見えていれば良い」というのはかなりゆるく大雑把な姿勢だが、そう考えることでありのままを受け入れられる。すると自分に対して優しくなれるし、何よりもその方が無理がないので心地よい。

心地よいのが一番だ。そのような心の状態でいる時、世界も人々も優しく目に映る。

それは、「見える」ということに対して、これまで私の中にあった古いものが終わりを告げるほど、大きく意識を変化させるものであった。手術をして左右の見え方が違う結果にならなかったら、考えもしないことだった。このことは、文字通り eye-opener (真実に目覚めさせるような出来事) であった。


 

52 私は泉

手術室に入ると、となりのトトロの「塚森の大樹」の曲がかかっていた。手術室へ入る途中で、手術を終えた私の前の患者とすれ違ったが、中学生の女の子だったので、おそらく彼女用にトトロをかけていたのだと思われる。

「塚森の大樹」は、主人公たちが植えた種が芽を出し、勢いよく空へと向かって伸びて大樹になっていくシーンの曲で、私は初めてそのシーンを見た時に、感動してしばらく涙が止まらなかったのを覚えている。

その大好きな曲がかかる手術室には、厳かな森の雰囲気が漂っていたが、右目の時にロックミュージックを褒めたので、それを覚えていたのか、執刀医は私の手術を始める前に、ロックミュージックに切り替えた。 

まもなく手術が始まった。眼球を切開するため視界が真っ暗だった右目の時とは異なり、今回の白内障の手術は、なんとも美しい光と色と水の世界だった。溢れるような水の感触があり、まるで泉の底から水面にゆらゆら揺れる青色やピンク色の光を見ているようだった。 

執刀医の手が動くたびに光が揺れる。思考を止めて水の感触と揺れる光だけにフォーカスすると、私は森の中にひっそりと佇む湧水であるかのような感覚になった。 

ふと我に返ると、バックでかかっているロックミュージックがうるさい。右目の時は、アップビートのロックミュージックがエネルギッシュで心地よかったのに、今回は不快に思うほど音楽が合わない。

入室した時から私の身体はしぃんとしており、穏やかだった。身体の右と左ではエネルギーが違うが、目もそうであった。それはもう太陽と月ほども差がある。右目が男性的でエネルギッシュな太陽だとすると、左目は女性的な厳かな月。

合わない音楽からは意識をそらし、私は左目で美しい光と水の世界を味わっていた。この世界には水の流れの音とか雄大な自然、特に森を感じさせる音楽が合うなあ、今「塚森の大樹」がかかっていたらさぞ心地よいだろうに、と思った。 

執刀医の手がゆっくりと時計のネジを巻くような回転の動きを繰り返し始め、それをぼんやり見ていると(目を動かすことはできないので見ていないわけにはいかない)頭がクラッとして銀河のような渦を巻き始め、簡単に変性意識へと入っていきそうだった。危ない、危ない、ここにとどまっていないと・・・。私は丹田に力を入れて意識を一点に合わせて踏ん張った。

それにしても、泉の底から今度は宇宙へも行けそうなんて!目は脳への小さな入り口であるが、神秘との大きな架け橋になっているのだなあと、自分の身体を通して思うのであった。 

この手術で新しく眼内レンズ(人工水晶体)が挿入されるが、水晶体は英語で crystalline lens という。手術前にクリスタルや湧水の夢を見たが、その夢の中でクリスタルの内側で中央から勢いよく湧き出ていた水は、絶えず湧き起こる生命の力として私の目に映った。 

手術中に目だけにフォーカスしていた私の意識は、その湧水として生きている水となり、きらめく光を見ていた。その時の感覚は、幻想的な夢の中でイキイキとしたいのちの輝きを感じ取った時のものと似ていた。 

見た夢の世界と、現実で体験した感覚が重なった。夢は私に物質の中心にある光り輝くいのちという本質を見せてくれ、手術もまたその本質を垣間見させてくれた。 

本質は目には見えず頭で理解するものでもなく、ある一瞬に感じることで受け取れるものである。それに対し、目の手術は精密機械を触るようなもので、非常に物理的な処置である。その物理的・肉体的な世界を通じて、私はその対極にある本質を受け取った。 

対極の状態の中で触れる一瞬であるからこそ、逆に気づきは非常にパワフルなものとなり、地にしっかりと足がつくような感覚をもたらす。肉体を超えた存在である自分が肉体としっかりと繋がることに喜びを覚え、同時に、肉体はそれ自体を通してそれを超えたものに触れることに喜びを覚える。

その両方が合体する時、今ここに生きているということへの喜びが増す。


 

51 家族の共振 – 母編

術前検査の心電図を撮るために他の患者たちと話しながら移動中、ふと遠くのガラスに映った自分の表情を見ると、それは母の顔になっており、私はゾクッとした。顔かたちが母そっくりというのではなく、エネルギーが母そのもので、私の存在が横へ押しやられてしまっているほど、それは強烈だった。 

網膜剥離になった時、鏡に映る自分の目が母の失明した目と重なった瞬間があったと書いたが、左目の手術を前に、またそれが現れた。右目の再手術の時あたりは、鏡に映った自分の顔に最近の父の顔が重なって見えていたとも書いたが、そのように自分の上に重なるように親の顔を観ると言うことが、目の不調が始まってから何度か起こっていた。 

私は思った。家族や親子の関わり合いとは何だろう?生物学的なこと以外に、グループとしてもっと複雑で深いエネルギー場での関わり合いがあるのではないだろうか。 

後で知ったことだが、私の左目の手術待ちであった数ヶ月の間に、母の左目にも変化が起こっていた。左目は緑内障で視野が徐々に欠けてきており、母は視力を失うことを恐れ、毎日それを訴え続けていた時があった。その恐れに比例するかのように、眼科で処方される目薬の数が増え、次第に強い作用のものへと変化していった。

今年の春頃からは新薬を処方され、数ヶ月間点眼を続けていたが、目がただれてドロドロに濁り、顔の左半分が腫れ上がり、母曰く「お岩さん」のようになってしまったそうだ。結局その状態から点眼可能なのは、遡って一番最初に処方された目に最も負担の少ない目薬しかなく、それも点眼は1日に1回だけということになった。それ以上は逆に目に害を与えるのだから、どうしようもない。 

10年以上複数の目薬を1日4回点眼してきた状態から、1種類を1日1回のみになったわけだが、逆に母の目はすっきりして綺麗になった。目が力を取り戻し元気なのである。おまけに視野はほとんど変化していないとのことで、あれほど目薬の数や種類を増やして躍起になっていたのは何だったのかと思うほどである。 

私の左目の手術への流れと並行して、母の左目にも変化が起こっているのは、偶然なのだろうか。私は、親子という小さい単位のグループエネルギーの共振のような、目に見えないものの動きを感じずにはいられない。 

車椅子に乗って手術室に入る時にも、ステンレスの扉に映った私の顔に重なるように母の顔があった。その時、私のこの手術は私だけのものではないと思った。



50 クリスタルと水の世界

入院の前日、私は飛行機に乗る前に親友と会った。テーブルを挟んで座った彼女の首からは大きなクリスタルのペンダントがぶら下がっており、私の目はそれに惹きつけられ、触れてみたくなった。 

彼女から許可を得て手のひらの上に乗せた瞬間、クリスタルの中にある金色に光る細工から何かが勢いよく飛び出してきて、私はビクッとした。私の触覚が金色の光とぶつかると細かい粒子になってパチンと弾け、空間に広がっていったような感覚になった。 

その影響もあったのか、入院する日の朝方、私はいつもとは違う種類の夢を見た。

夢の中で私は小道を歩いていると、いつしか深い森の中にいた。そこには、前方に淡いラベンダー色の光を放つ水たまりがあり、その向こうには薄水色の水たまりや、透明な水たまりがあちこちで輝いている。奥には、それらの源であるV字型の氷河が厳かな姿でたたずんでいる。それ以上ないというほど透明で清浄な空間。私は、全てが美しく光り輝く森と水の世界にいた。

この手の夢を見るのは久しぶりだった。ずっと以前に岩の間を縫うように流れる川の夢を見たことがあり、その時は岩の上のあちこちに色とりどりのクリスタルがあり、水とクリスタルが光り輝いていた。

今回の夢は、その時の夢とよく似た感触を与えるものであり、いずれも幻想的だったが、別次元で実際に存在していると感じさせるほど見るもの全てがイキイキとして、そこに宿るいのちの輝きを放っていた。 

その翌日、手術の日の朝方にも夢を見た。先端が丸みを帯びた柱状の大きなクリスタルが現れ、クリスタルの内側で中央から勢いよく水が湧き出ていた。そのクリスタルは実際私が持っているものであり、水の湧き出る様子は数ヶ月前に岩手と北海道で見たものにそっくりだったため、私は夢と現実が交差している不思議な感覚を覚えた。 

クリスタルのペンダントを着けていた親友に夢のことを伝えると、彼女はほぼ同じタイミングで、とある湧水のことを耳にしたばかりだったという。気になったため、その場所の画像をインターネットで検索してみると、その湧水はまるで瞳のような形をしていた。 

これから手術を受けようとしている私に、クリスタルや水の夢、そして瞳の形をした湧水の存在が集中的に浮上していたのだった。


北海道京極町ふきだし公園にて








49 いよいよ左目に

右目は手術によってクリアーな視界と視力を取り戻し、左目の強度の近視と進行する白内障の影響をカバーしていたので良かったものの、左目は日常生活に支障が出るほど悪化していた。右目の時と同様、手術日は待っていてもなかなか順番は回って来なかった。12月に入って、病院に問い合わせてみると、しばらくベッドに空きがないということだった。

プッシュをすれば年内の手術は不可能ではなかったが、夫との旅行の予定が入っていたため、無理はしなかった。網膜剥離からずっと私を深いレベルでサポートしてくれていた親友は、今回の手術も完璧なタイミングというのがあるので、リラックスしてただ天に委ねていれば良いとアドバイスしてくれた。 

私は、右目の手術の後で見ることになった絵「スターガーデン」の作者フェイス・ノルトンが、彼女が描く絵についてこう語っているのを思い出した。

「私はスピリットとの対話やビジョンから構図やアイデアを受け取って描くが、受け取るタイミングも実際に描けるタイミングも自分が考えているものとは違い、随分待たされることがある。しかし、来る時は完璧な形とタイミングでやってくる。スピリットの時間とマインドの時間は違う」と。 

確かに、年内に両目が揃えば気持ち良いだろうな、年内に片付けてしまいたいというのはマインドの勝手な希望であり、ハートはそんなマインドの都合にはお構いなし。ハートの時間軸は別なのである。 

それから2週間ほど後に病院から連絡が入り、年明け1月4日に手術を行いたいということだった。手術の3日前から抗生剤の点眼が始まるため、左目は2019年1月1日に準備開始となった。「う〜ん、こういう展開だったのかあ」と私はおもわず唸った。 

年末年始を実家で過ごし、今年は1月2日に戻るように復路の飛行機の座席を2ヶ月前から押さえてあったが、手術前日の3日に入院なのでギリギリセーフ。あまりにも日程が無駄なくきっちりなのにも驚いた。 

1月3日の朝、病棟で入院の受付を済ませると、係りの人が言った。

「個室でしたね」

「個室だ!」私は心の中で叫んだ。

後ろに付き添っていた夫は、4人部屋と聞いていたので目を見張った。 

今回は、病院に4人部屋希望と伝えてあった。ところが、手術の連絡時にも4人部屋だと確認したにも関わらず、また個室が準備されていた。 

私は内心ニヤリとした。本心は個室希望だったが、今回は入院日数が少ないので4人部屋で我慢することにしていた。しかし、天の計らいがあるのなら、奇跡のように私は個室を与えられるだろうとも思っていた。友人が手術の件は天に委ねていれば良いと言っていたが、やはり、個人の思考を超えた大きな力によって物事が動いていると確信した。 

私は 1211 号室に案内された。右目の時は一つ下の階だったが、今回はその真上に当たる部屋だった。しかも、部屋番号が右目の時は 1112 で左目の時は1211。11と12が入れ違いのペア?何だこりゃあ〜、おもしろ過ぎる!! 

いえいえ、目は左右でペアですからね。宇宙のジョークか?もう本当に、私は大船に乗った気持ちでいられた。



48 教えてもらえない

そのように、私はシアトル滞在中にピンときた時は古老のいる店に行くようになり、タイミングよく言葉を受け取ってきたが、ここ2年ほどはピンと来ていない。 

と言うよりも、最後に受けたセッションで、リーディングに対する私の期待や理解が吹っ飛んでしまったから行こうという気持ちになっていない、と言った方が正しい。 


その最後のセッションは、網膜剥離になる半年ほど前だった。古老はリーディングの射程距離として、この先半年くらいの流れを語るが、私は最後の部分以外は、この時のセッション内容は覚えていない。

私はおそらく最後に、私自身の今後の全体的な流れについて、何かメッセージはありますか?と聞いたと記憶している。これまで私がした質問の中で、最も漠然としたものだった。 

スピリットからどんなメッセージが出るのかと、私はじっと待っていた。 

古老はその質問を受け取ると頷いて、首を斜めに上げてじっと意識を集中して待っているようだったが、しばらくして肩をすくめると、首を横に振りながらこう言った。 

「おおおぉ〜、彼らはワシに教えてはくれん。聞いても答えてくれんのさ」 

「ええーっ?そんなのあり〜ぃ??」私は心の中で驚いた。

 「彼らが口をつぐんでいるんで、ワシは何も言えんのだよ」
古老は、ちょっと困ったような顔をして微笑んだ。

「・・・・・」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。 

黙っているということは・・・と勘繰り始めた私の頭の中は、スピリットたちにはガラス張りである。古老は、慌てて付け足すようにこう言った。 

「ただ、これだけは言っておこう。You have an incredible journey ahead of you(この先 incredible な旅が待っている)。ワシからも祝福を!」 

そう言って、古老は両手を広げた。 

今だからわかる。黙っていて当然だ。「君はこれから網膜が破れ、失明寸前になる。その後、後遺症があったり両目が白内障になったりで、長い間見えづらい状態になるのさ」なんて言われたら、私はビビってしまい、何も手につかなくなってしまうだろう。知らぬが仏で正解だった。 

スピリットたちは、どんな時も私を見守ってくれている。常に私を愛で導いてくれており、私がそこに意識を向ければその愛を感じることはできる。だが、彼らはヘリコプターペアレントのように頭の上でブンブン言って、私の成長の芽を摘むようなことは決してしない。 

ごく稀な場合を除き、こちらから聞かない限り、また、私に知りたいという意志がない限り、向こうから一方的に教えてくれることはない。そして、教えてくれる時は、私がそれを基に自分の頭で考えて行動し、成長できる形で教えてくれる。 

私のミスによって占星術の情報がなぜかいつも少しずれてしまうことについて、「あいつは性格上、真面目に情報を信じるがあまりにかえってそれが制限になるから、ちょっとだけずらしてやろう」とスピリットたちが操作したのだろうかと思ったことは、まんざら間違えではないだろう。 

自ら創造する、創造者として生きる、ということをスピリットはあらゆる角度から私に示そうとしているように思う。彼らは、私の成長を心からサポートしてくれているのである。 

自分の目の状態が徐々に悪化して行っても、それと並行して、親の老いや健康、実家の行く末にストレスや不安を感じても、スピリットと古老から受け取った ”You have an incredible journey” という言葉が常に私の心の中にあった。incredible journey の incredible とは、「信じられないほどの、とてつもない、素晴らしい」という意味がある。その言葉が光を灯し続け、私に力を与え、根底を支えてくれている。 

この言葉は、これからも私の魂の羅針盤としてハートの中にあり続ける。



47 メディスンマンのリーディング

シアトルに、自分が作ったカードを使って、店の一角でリーディングをする古老のネイティブアメリカンのメディスンマンがいる。古老の存在は20年ほど前から知っていたが、私がリーディングをしてもらいたいと思うようになったのは、2012年に日本へ戻ってからのことだった。 

古老は週に2日くらいしか店にいないと聞いていたが、私はシアトル滞在中にたまたま行ってそこに古老がいれば、リーディングのタイミングだと思い、セッションを受ける。 

私はカードをシャッフルするだけで、あとは古老が10枚ほど並べていく。20分間のセッションだが、カードから読み取ることを話しているように見える時もあるが、視線が遠くに向いている時もある。時間が来て鳴り響くタイマーをバン!と手のひらで止めて、そこから質問してもいないことを話し続けることもある。もうそれはリーディングではない。

初めてのセッションの時、カードが並べてあるのに、それは横に置いておいてという風に顔を上げて、私の目をじっと見つめ、古老は、一語一語注意深く力を込めて、ごくゆっくりとした口調で言った。 

「まず、言っておこう。君はこの時期(震災後)に、日本のその場所に移り住むということを、最初から魂が決めてきたんだ」 

丹田のあたりにグッと力が入った。なぜなら、それは私自身が1ミリも疑うこともなく感じていたことだったからだ。そうでなかったら、起こり得ない形で、住んだこともなく知人も一人もいない場所に引っ越すという展開はあり得なかった。 

初めてのセッションで、いきなり魂スケールのことで始めるなんて、やはりメディスンマンだなと思った。これはただのリーディングではなく、古老の口を通して、私はスピリットと魂レベルの対話をしているのだと思った。そして、それこそを、私は欲していた。 

あるセッションでは、古老は、私が内心気になっていても言及しなかったことをまるでその映像を見ているかのように取り上げ、高い視点から何が起こっているのか説明してくれた。その説明は、言葉と共に私の額の前に映像としても描かれて入ってきた。それは占いではなく、その出来事を引き起こしている原因、つまり人間の心の一側面に光を当てるものだった。そして、最後に古老は、常にスピリットが守ってくれているから安心して良いと言った。 

あることがきっかけで母が精神崩壊状態になってしまう前にも、私はシアトルを訪れ、たまたまセッションを受けていた。セッションの終わりに何か質問はないか?と尋ねられたので、私は母の体調不良が気になっていることを話した。すると、古老は急に顔をしかめ、母自身が長い間向き合うことを怠ってきた宿題のことを言及し、母はそれに取り組む必要があると言った。 

それから約2ヶ月後、一気に母の精神が不安定になり、家族共々しばらく闇の中を通ることになった。それはかなり強烈な出来事だったが、その時に古老からもらった言葉のおかげで、私は真っ黒な渦の底まで引きずり込まれて沈むことなく、なんとかくぐり抜けることができた。 

起こっている問題と同じレベルで物事を捉えていたら、恐怖の渦に取り込まれて多分一緒に沈んでいただろうが、それよりも高い位置からの視点は、私の顔を水の上に留まらせ、前を向くことを促してくれた。 

古老がくれた言葉は、私を守り導くスピリットの光だった。その光の中で、私は確信を持つようになった。母は闇から抜け出せる、そういうことになっている、と。私は母に、渦から抜け出る日が必ず来るからと言って励まし続けた。そして約2年後に、私が言った通りだったと母が認める日が来ることになる。


 

46 占星術にご縁なし?

私は、子供の頃から天体や宇宙に興味があった。星と自分を結びつけて読み解く占星術にももちろん興味があり、これまでそれぞれ違う人から4回ほど占星術のセッションを受けたことがある。しかし、なぜかほぼ毎回外れるのである。 

占星術師が原因ではなく、私(?)にある。 

1回目は出生地をうる覚えで、母子手帳で確認しようと思ったら、セッションの前に限って、それが神隠しにあったようにいつもあった場所にない。結局間違った場所を相手に渡してしまったので、正確でない情報が出てしまった。 

2回目は問題なかったが、3回目にセッション前に占星術師とおしゃべりをしながらリーディングに必要となる出生日時を書いていたら、なぜか違う時間を書いており、それに気づいたのはセッションが終わって帰宅してからだった。どうしてあんな時間を?というような数字を書き込んでいるなんて、自分でも信じられないことだった。 

そして、4回目は、後でゆっくり聞けるようにセッションを録音した。実際、帰宅してから再生して少しだけ聞き直した。思うことがあってきちんと聞きたいと思ったのはそれから1年後くらいのことだったが、再生しても無音になっていた。他の録音は綺麗に残っており、そのセッションも以前は聞けたはずなのに、本当に聞きたい時は消えていた。 

してやられた、と思った。一度ならず三度も。 
「あいつは性格上、真面目に情報を信じるがあまりにかえってそれが制限になるから、ちょっとだけずらしてやろう」とガイドスピリットたちが操作したのだろうかと思わずにはいられない。 

私はこれまで三人の占星術師に出会ったが、中立的で客観的に伝えてくれ、解釈に広がりのある人(これが最も好き)、権威的な印象を与え、解説に少しおどろおどろしさがある人、途中に私情が入って強引な感じの口調になる人など、それぞれ特徴があった。どんなことでも扱う人のフィルターを通るし、何を焦点にするかで読み解きも違ってくるので、それをどう処理するかの責任は受け取る側にあるだろう。 

受け取る側の主観的な解釈は、心理状態によっても違ってくる。


「来年の8月に家族の構成に変化がある」と言われた時、私はひょっとして父が・・・と思ったが、結果的には姪ができちゃった結婚をしたのだった。 

「春頃に家族のことでまとまった額のお金が動くことになるでしょう」と言われた時は、ひょっとして父に何かあって引越しとか・・・と思った。結局、夫の家族が遊びに来て、散財したのだった。 

「12月は地元を離れる状況になり、活動は休止になるでしょう」と言われた時も、ひょっとして父が・・・と思った(しつこいでしょう?(苦笑))。結局、台湾へ遊びに行ったり実家で年末年始を過ごしたりで、物理的にほとんど地元にいなかっただけのことだった。いかにその時の私の恐れが解釈に反映しているか、分かるであろう(苦笑)。 

「このあたりの時期に、芸能界にデビューして注目を浴びるような星が出ています」と言われていた時期は、後で振り返ると網膜剥離になった時とピッタリ合っていた。最初それを聞いた時、私は自分の活動が脚光を浴びるのかと思ってワクワクしたが、的が外れていた。しかし、確かに網膜剥離は、自分自身に特別な注意を払うべきスポットライトが当たり、その後の軌道が大きく修正されていく重大な出来事だったのだ。 

そう、占星術師が言ったことはどれも合っているのであるが、私の勝手な解釈が外れていた。客観的にどれも合っていたということは、星の動きに従って順調に進んでいるということなのだ。なので、その大きな流れの中にいることを信じて、余計なことを心配したり期待したり変な解釈をしないで、毎日を楽しく過ごせば良いのである。


 

45 魂の仲間

私の目が見えづらくなっていくことで、物理的に負担になることをやらなくなり、これまでやってきた活動から一旦降りたことを書いたが、実家との関係においてもそうだった。

私はどんなこともできて、何でも即座に解決できると勘違いされているのか、母は私に何でも頼んできた。そのため断らない限り、引き受ける負担がどんどん増えてしまっていた。それでも頑張ってやり続けていたが、あの頃、私は大きな荷物を背負っていたり、荷物を両手にいっぱい持っている夢を何度も見ていた。 

アメリカで網膜剥離の手術をし、しばらく帰国できなかった時、ああこれで実家から電話もかかってこないし、私は一人でのんびりできるとホッとしている自分に、実家がこれほど自分にとって負担になっていたのかと気づかされたことを覚えている。 

実際、目の不調は私をサポートしてくれていた。私の両目の状態が母の片目よりも悪いことを目の当たりにした時から、母は自分のことよりも私を気遣うようになり、私が来るまで待つのではなく、自分でタクシーを使って医者へ行ったり、私に頼むのではなく、自分で電話をして注文や配達の手配をしたりと、できることは自分でするようになり始めた。私も目が疲れるからそれはしたくない、できないと断ることが増え、断ることに罪悪感を感じないようになってきた。 

目が不調だというと、病気だとか何か悪いことのように捉われがちだが、母娘の天秤棒の傾きに変化を起こす助けにもなってくれていた。私にとってこの不調は災難ではなく、むしろ盟友である。 

全てが変化していく中、家族の動的バランスも変化するのは当然だろう。私は母は私の敵ではなく、私の教師、強烈な形で教えてくれる魂の仲間だと思っている。そして、母にとって、私も強豪の娘役を買って出た仲間なのだろう。 

夕方、家事の合間に二階へ上がっていくと、部屋に私の布団が敷かれていた。「あれっ、布団が敷いてあるけど」と言うと、母が「私にはこれくらいのことしかできないから、せめてものお礼に、心を込めて布団を敷かせてもらった」と言った。 

その夜、部屋に戻って改めて布団を見てみると、隅まできちんと広げて丁寧に敷かれており、母の愛が伝わってきて涙が溢れた。「これくらいのこと」ではなく、それ以上のものはないほど大きかった。 

翌日実家を出る前に、私は母の目の奥を見つめて「お母さんは私のことを怖がって、私も時々厳しかったりひどいことを言うけれど、それはお母さんを信じているからだよ。信じているからこそ、そうしているんだよ。そうでなかったら、そんなことは言わない」と言うと、母は私の目を見つめてじっと聴いていた。 

それは本当のことだった。母がどれほど自分に自信がないと言って(随分昔からそう言ってきた)嘆いても、私は母を信じており、それは変わることはない。そして実際に、母は自分には何もできないと言いながら、とても大きいことをしているのだ。


 

44 ぶつかってよい

ぶつかり合うことはよくない、というのが今までの私だったからこそ、ずっと我慢して NO も YES にしてきたわけだが、自分の軸が強化されてくると堪忍袋のサイズが L から XS になってしまったようで(苦笑)、考える前に口から NO が出てしまっており、イライラも抑えることができなくなってしまった。 

でも、私は我慢しなくて良かった。それに対して迷いがあった時、むしろぶつかって良しということを、私は意外な形で教えてもらった。 

母と激しい応酬を繰り返していたある夜、それをじっと聞いていた父に「もうこの辺で終わりにしたら」と言われたことがあった。燃え盛る怒りと共に二階へ駆け上がった私は、一人になるとクールダウンし始め、母に対して随分酷いことを言い、父にも嫌な思いをさせて、優しくしてあげなければいけない高齢の親に対して私はなぜあんなことをしたのだろうと罪悪感が頭をもたげ、呼吸が速くなって胸がドキドキした。 

その呼吸を落ち着かせるために、目を閉じて深呼吸をしていたら、父と母と私のハイヤーセルフ(?)が手を取り合い、「よくやったね〜、ゴーカクー」と喜び合ってグルグル回っている映像が浮かぶのである。 

「へっ?」
 
拍子抜けしてしまうほど、私たち三人は楽しそうに仲良く笑いガッチリ手を握り合っており、その様子を感じていると、三人の間から発せられている眩しい光が私を包んだ。このぶつかり合いは、互いの成長のために通る一場面にしか過ぎないのか?私のハートは、言い合いの奥にあるものの方が本当なので、表面的な幻想に惑わされるなと言っているようだった。 

今までとは違う路線に組み変わる時には、これまで乗ってきたレールが古く錆びていたなら尚更、ガチンと衝撃があっても仕方ない。 

私は母に謝る気はなかった。お互いに言いたいことをぶつけ合っていただけで、謝る理由はないからである。 

ただ、私は三人が輪になってグルグル回っているあの映像や、言い合いは幻想であってこの映像が本当だという声に対して、鵜呑みにせず慎重に構えていた。それが本当なら、何らかの形でそうだと教えてくださいと天に頼んだ。 

翌朝私が台所で朝ごはんの支度をしていると、母が起きてきて、昨夜二人の間で何かあったようだけれど、何があったか覚えていない、思い出せないと言った。 

私はそれが天の答えだと思った。 

母の方に振り向いて、私は言った。
「いや、特に何もなかったよ。覚えてないなら、全然気にしなくていいんじゃない? ご飯食べよう」



43 もう戻れない

これらのことと並行して、私は母との古い関係から抜け出す方向へと押し出されていった。そのきっかけとなったのは、やはり網膜剥離だったと思う。 

アメリカで網膜剥離になり右目の視界がほとんど真っ黒になってしまった時、鏡に映る自分の目が母の失明した右目と重なった瞬間があり、その時本能的に、私は自分に必要でないものは母から引き継がないことを決めた。 

意志を持って何かを決める時、エネルギーが大きく動く。そこから関係性の変化が始まったと言える。自分の軸が強化されるに従って、母と同化されていた部分が浮き彫りになり、違和感とイライラが募っていった。 

それでも、しばらくはずっと我慢していた。私の子供の頃からの癖である。なぜ我慢をするのかというところを探っていくと、奥に「守りたい」という気持ちがある。私は子供の頃から、親のためになら死ねるとずっと思ってきた。それほど自分にとっては特別に大切な人達だった。そのことを初めて父と母に打ち明けたいと思った時がやって来た。 

私は、実家にいたある夜、父と母の前でそのことを伝えた。二人ともじっと聞いていた。話し終わると父が「なんて素晴らしい話なんだ、親のために死ねるなんて、こんな親孝行はない」といって褒めてくれた。そのすぐ後に、母が「子供に守られるなんてどういうこと?!それは親に対する最大の侮辱だ、私はそんな情けない親か!」と言って激怒した。 

その瞬間、私はわかった。両極だ、私はこれを与えられている、子供としてその間に立つ、と。それと同時に、否定的な感情を吐き出す母に、嫌だと思いながらも子供の頃からあれほど寄り添って受け取ってきた自分のことを、母は何もわかってはいなかったのかと思うと、これまでのことがバカらしく思えてきて、引きずってきたものが吹っ切れた。 

その直後に、母が私をわかっていなかったのではなく、私が母に対してこう思っていて欲しいという期待があったのだと気づいた。あれほど母のことをわかっていると思っていたが、結局私は母のことは何も知らないのかもしれない、とまで思った。そう思った瞬間に、私の頭の中でパンと小さな衝撃音があり、一瞬で私が大きく後ろに下がり、そこに隔たりができた感覚があった。 

そこからは、今まで思ったことを言えなかった私は、まるで敗者復活戦であるかのように、実家へ行くたびに母と激しくぶつかった。 

ものの見方や考え方がもう随分違ってしまっていること、同じスペースにいても、互いにかなりかけ離れた世界にいることを嫌という程見せられた。実家へ行くたびに、母の口から壊れたテープレコーダーのように過去の否定的な体験が詰まった古いプログラムが何度も再生され、母に「あなたが違う人になってしまったので、私はあなたのことが怖くて怖くて仕方がないが、自分に自信がなく、自分には何の力もないからあなたにしがみついていたい、自分はただもう早く死にたいと思っている」と言われ続けた。 

どんなに母が嘆いても、以前は疑うこともなくいた場所に、私はもう戻ることはできない。しばらくの間母とのぶつかり合いを繰り返しながら距離を作っていき、私は自分の新しい立ち位置を築いていった。

 

42 トンネルを通る

冒頭で書いたように、夢の中で弱視という言葉を突きつけられ、確かにしばらくの間その状態になったが、そこでストーリーは終わらなかった。結果的にはクリアーな視界を取り戻すことになるが、そのことだけが目的ではない。そこへ到達するまでに通るトンネル内での体験が、私にとってさらなる成長への橋渡しとなってくれていることは間違いない。 

弱視状態になったからこそ、これまで進んできた軌道から一旦降り、降りても失うものは何もないことを知った。ゼロになっていくことで、自分の軸がより浮き彫りになり強化された。感覚が更に開いた。スローダウンすることで得られる心地よさや質、豊かさを味わった。 

必要な時に必要なものが与えられることを再確認した。腰を据えて文章を書くために絶対必要と思いながらも取り組めず、長い間大切に持ち続けてきたノートを全部捨てた後に、こうして初めて腰を据えて文章を書けるようになった。他にもたくさんあるが、それらが全て私のエッセンスに統合されていく。 

そして、北海道での出来事や即興ピアノの体験のように、これまでにないタイプの体験が新しい次元の扉を開き、私は未知なる新しい流れと共に、これから新たな道を歩んでいくことになるのだろう。


 

41 魂のエッセンス

弾いている様子を録画してあったので後で聴いてみると、全く頭は使っていなかったのにまるで作曲してあったかのように構成があったり、目を閉じていても正確に同じ場所へ指が置かれて同じメロディーが繰り返されていたり、要所要所で心地よい間が置かれていたりと、弾き方もよく知らないのによくあんなことができたものだと自分でも驚いた。本当に、自分の頭で考えると不可能だと思えることばかりだった。 

その後、私はこの演奏の録画を何度聴いても飽きなかった。なぜ飽きないのかというと、そこに私の深い部分が反応する音やメロディーが織り込まれていたからである。特定のメロディーや和音にゾクッとしてスイッチがオンになる感覚があったり、聴いていると体が熱くなってきたりする。 

岩手の友人が弾くピアノから伝わってくる彼女の奥に秘められた姿に「心打たれて感動した」、「何かとてつもなく大切なものに触れさせてもらっていると感じた」、「これはただの演奏ではない、魂のこえだ」と前に書いたが、自分の演奏を聴いていて、これは私の魂のこえであり、エッセンスだと思ったのである。 

それを聴くことは、エネルギーを水に転写して作るフラワーエッセンスや環境エッセンスを体内に取り入れるようなもので、聴くことで内側からの変化が加速していくのではないかと思う。 

耳を澄ませて、もう一度丁寧に聴いてみる。内側から溢れ出る即興演奏は、唯一無二で二度と同じものを作ることはできない魂のこえを表現したもの。今を生きる私という存在のこえが、指という肉体を通して発せられる色とりどりで豊かな世界。 

その豊かな世界を心の目で観ると、そこには宇宙が横たわっているように感じられる。ひとつひとつの音の組み合わせで構成される演奏の中に、普遍と可変がそれぞれ縦糸と横糸になって紡がれている。音と音の間の静寂には漆黒の宇宙の広がりがあり、音の波紋がその空間に広がっていく。そして、それらすべての背後には、大いなる神秘が横たわっているように感じられる。






40 夢の次元を現実に降ろす

9月末にシアトルを訪れ、友人宅に数日滞在させてもらった。20年以上住んだシアトルは、私が初めて心の声を聴きその後の人生の軌道を大きく変えた場所であり、様々な体験を通して自分のエッセンスを思い出して行った魂の故郷でもある。 

ハチや8に集中的に出会い、それは「物理的に不可能と思えることを可能にする」ことの象徴であると自分なりに感じ取った後、8月8日に見た夢の中で、私は即興でピアノを弾いていたと書いた。 

その夢を見て以来、夢の中で体験した、感じるままに動く指が作り出す深く豊かな音色や滑らかな水の流れのようなメロディーと、完全にリラックスして流れの中にいる心地よさが、心の中に長い余韻を残していた。 

あれは夢だったけれど、ひょっとしたら私は実際にそれができる?夢の中で演奏している自分を離れた場所から見ていた自分は、夢の中だけでなく今この現実の中にもいるような気がした。その部分の自分は表面には出ていないが、私の内側の奥にいるような気配があり、漠然としてしっかりとした根拠もないが、実現できるという自信があった。 

シアトルの友人宅には以前の住人の持ち物がいくつか残っており、そのひとつがリビングルームに置かれている古いピアノだった。それは調律されていないということだったが、息子さんが時々弾いており、木製の家具調ピアノは見た目にも温かみがあった。 

ある日、その家に一人でいた時、私はふとピアノに触れてみたくなった。「今なんだ、実現するチャンスは・・・」というハートの声が聴こえた。7月に岩手で20数年ぶりにピアノに触れ、友人に助けてもらいながら即興演奏をほんの少しだけ体験させてもらった。その後、リアルな感覚を伴った即興演奏をする夢を見たが、今シアトルでさらなる体験の時が来たのだった。 

お膳立てされている、と感じた。だからやってみるしかない。 

ピアノは習ったことがなく、楽譜も読めないと前に書いたが、だからこそ、夢の中の感覚を体験するに絶好の条件なのである。ゼロの状態でやることに意味があった。 

家には誰もいないので、遠慮する必要もない。頭を空っぽにし、感覚だけを開け、指を置いてみる。頭が空っぽになると、これは「ド」、これは「ラ」というような認識がシャットダウンされ、目に映る鍵盤のひとつひとつはただ「長細い四角い形をしたもの」としてのみ認識される。 

そのひとつひとつの四角いものに、ただその瞬間感じるままに指を置いていく。出る音は、指が触れるまで全くわからない。 

岩手では友人がそばにいて音を重ねてくれたが、ここでは全く一人の世界だった。数分間弾いてみるということを、何度かやってみた。リラックスするに従って、自分とピアノの距離が縮まっていった。 

白鍵だけを触っていたが、出てくる音に間違った音などひとつもない、ということに気づいた。私にとって、ピアノは厳格な指導というイメージが伴っていて硬い感じがあったが、今目の前にある古くて調律されていないピアノは独特の音色と温かみがあり、全てを受け入れてくれる器の大きい存在だった。 

次第に大胆さが増してきて、私は指もピアノも完全に信頼できるようになっていた。そこには何もない、ただ指が動いているだけという感覚だった。手指の数や幅、場所を感じるままに変えて置く瞬間に発せられる音が指の動きと共に変化していくのを、目を閉じて新鮮な感覚で聴いている自分がいる。 

ああ、この感覚。この音色・・・夢の中の自分と、今これを弾いている自分が重なる。 

しばらくすると、感情の流れのようなものが内側からこみ上げてきた。ここからは強さを、ここは優しさを・・・。出る音を聴きながら、内側から音の物語を進めていく。 

私は感覚的に物語の流れの舵を取り、指にそれを実行する仕事を任せて、ピアノの椅子に座って演奏を聴いていた。それらが独立していながら全部がひとつだという不思議な感覚を、さらに離れた場所で見ている自分がいた。 

ある時、突然、指が人に思えた。左手の指の人と右手の指の人が、お互いの存在を認識し、離れた場所から徐々に近づいて出会っていく。それぞれの歩幅とステップで近づいていく男女。鍵盤の上で二人が出会い、その関わりの中で人生のダンスが繰り広げられていく。二人のダンスがメロディーになり、ハーモニーになっていた。弾いていてこんな風に感じるなんて、なんて面白いのだろう! 

私は弾いている間、ほとんど目を閉じていた。目を閉じていても、指は触れる場所を正確に知っているかのよう。私と「目に見えない何か」が同時に創造をしている、と感じた。

 私は、その目に見えない何かとダンスをしながら、流れの中で力を抜いて一緒に流れていた。そのなんと心地よいことか。そこにあるのは深い喜び、純粋な喜びだった。 

私は8月8日に制限のない夢の次元で見たことを、自分の肉体を使って現実で創造していた。ピアノの夢は、夜空に向かって昇った列車のシーンの前に見たものだったが、シアトルの友人宅で弾いたことは、列車に乗ってその次元へと行き、受け取ったものを地上へ持ち帰ったようなものだった。